【ルパン三世】銭形がルパンを追い続ける異常な執念の理由www
アニメアニメ2021.11.14 Sun 20:00
https://animeanime.jp/article/2021/11/14/65412.html
■銭形の「宿命」
銭形はなぜルパンを追うのだろうか。
刑事が泥棒を追うのは職務だから当然と言ってしまえば、それまでだが、それにしても銭形のルパンへの執念は職責だけで納得できるようなものでもない。
銭形は、TVアニメの1stシリーズの第一話「ルパンは燃えているか…?!」で、それは「血の宿命」であるとほのめかしている。
「血が・・・、宿命が・・・、貴様がアルセーヌ・ルパンの孫でなかったら、俺が銭形平次の子孫でなかったら・・・」
『ルパン三世』シリーズのアニメは、シリーズごとに、あるいはエピソードごとにも設定のブレがあるのだが、シリーズを通して銭形がルパンを追う明確な動機は語られず、もっぱら自分はそうするのが当然であることを疑わず行動しつづけている。そして、ほとんどの視聴者もそれを当然と考えている。そういう状況は確かに「宿命」という言葉で表すしかないかもしれない。
この「宿命」を、ややメタ的な視点でとらえ直ししてみたい。
敵役は主人公にやられる宿命を背負っている。そうでなくては、物語は成立しない。
本シリーズの主人公ルパンは泥棒であるため、敵対する存在としては刑事が適任だ。しかし、敵役が主人公を倒してしまうと物語が成立しないので、銭形はいつもルパンに出しぬかれる役割を担わされる。結果として、アニメでの銭形は必ずルパンに一泡ふかせられ、逃がしてしまうドジなキャラ付けをされることになった。時にルパンを逮捕しても最後には脱獄されるのがお約束だ。
銭形は、実際には優秀な刑事だとしばしば言われる。一対一ならルパンファミリーの誰ももかなわないと言われることもある。そんな銭形が、敵役の宿命で、コメディリリーフ的な役割を背負わされるのは、なんだかもの哀しい気もする。
■宿命から生きがいへ
しかし、銭形はそんな敵役の宿命を背負いながらも、ただの間抜けな存在にとどまらない魅力を獲得するにいたった。そして、それこそがシリーズ全体の魅力をも支える大きな要因になっているとさえ言える。
物語装置として考えると、銭形は、ルパン一味を追いかけて出し抜かれてくれるだけでよい。しかし、いつしか銭形は、とりわけアニメ版では、ルパンとの間に奇妙な友情が芽生え、ルパンを追うことが人生の生きがいとなっている。シリーズ一期で神妙に宿命を説いていた銭形は、その言葉とは裏腹にどんどん生き生きとしていくのだ。
銭形は、ルパンが死んだという誤情報に接した時には、だれよりも深く悲しむ。それは、自分が相対すべきものを失った悲しみであり、自分の生きる目標をも無くしたことを意味するからだ。そしてルパンが生きていることがわかると、ものすごくうれしそうな反応をする。
同じルパンを追いかけるでも、動機が「宿命」か「生きがい」では大きく違う。「宿命」は呪縛だが「生きがい」は自由意思だ。何度ルパンに出しぬかれようとも、彼はへこたれない。それはある意味、これからも生きがいが続くということだからだ(時には自らルパンを見逃していると思えるフシもある)。
■銭形が体現する社会的正義
銭形は、本シリーズの社会的カタルシスを視聴者に提供するためにも重要な存在だ。
主人公ルパンはアウトローだが、アニメ版では義賊のような正義感ある泥棒として描かれることも多い。しかし、泥棒は悪党であるという基本は崩せないため、完全な正義として描くわけにもいかない。そのため、悪党が登場したときに、銭形が社会的正義を体現する展開が度々ある。最も典型的な例は『ルパン三世 カリオストロの城』だろう。ルパンを追ってカリオストロ公国の偽札作りを知った銭形は、一時的にルパンと共闘してその悪事を暴こうとし、ICPO上層部の圧力もはねのけ、その正義感を貫徹した。
悪漢退治はシンプルなカタルシスを提供できる。本シリーズの場合、悪党のルパンが倒して、最後は銭形が片を付けるというアクロバティックなやり方でそれを提供する。原作のルパンはもっと悪人然としていて、人も殺すので、原作との違いについて思うところがないわけではないが、原作通りの路線の場合、ここまで国民的人気を博すことはなかったかもしれない。
ルパンが悪党の体裁を保ったまま、なおかつ悪漢退治のカタルシスを提供できるのも、銭形という敵役を絶妙の立ち位置に置いたからだ。「宿命」という呪縛を破って「生きがい」を貫き、観客にカタルシスを提供するために潤滑油として抜群の存在感を発揮する。銭形なくして、ルパン人気はなかったと言える、偉大な敵役だ。
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